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小品集

 

われら疎開世代が歩んだ人生

戦中 戦後を生きる       


少年時代

生まれた時のことを人づてに聞きますと、私の祖父は、当時珍しかった東大出で、神戸市の助役、関西の財閥、銀行の役員をしていたそうです。私はその孫として神戸は六甲の地で生まれました。父は神戸商工会議所の職員で私がまだ7歳の時に兵役につきました。

戦時中は、当家の女中が淡路島から来ていたこともあり、その伝手を頼って淡路島の市村というところに疎開しました。一緒に疎開したのは父の母と私たちの母、そして私と2人の弟でした。小学校の先生は都会から来る生徒には「蛸つってやる」といって我々疎開組は随分といじめられたものです。

終戦間際、関西大空襲に遭い、芦屋にあった我家と10数軒あった借家はすべて焼失してしまいました。それでも母は、「お父様さえ帰って来られれば・・・」と言っていました。天皇陛下の終戦の玉音放送を聞いたのは淡路島で間借りをしていた2階の小さな部屋でした。しかし、母が待っていた父はついに帰らず、追って戦死の公報が届きました。

終戦後は、家無し一文無しになってしまい、わが家にはこれといった収入もなく、家は借家を転々とし、母が働きに出ました。私たち兄弟の楽しみはと言えば、お正月に親戚回りをしてお年玉をもらうことぐらいでした。親戚を正月3カ月で5~6軒回りましたが、どの親戚も不憫に思ったのか事前に用意してくれていました。

中高時代

その後も住居は定まらず転々としましたが、卒業した小学校は芦屋の山手小学校だったと思います。

そのあとは、この文集に寄稿されている皆さんと同じ六甲中学校、六甲高等学校に通いました。学校時代のことにつきましては、ここに寄稿されている皆さんと思い出が重なり合うと思いますので割愛します。

ただ、私は中学校に入学当初、10数名の友人たちとカトリック教会の洗礼を受けたたことを憶えています。私が洗礼を受けた後すぐに母も洗礼を受け、その母はイエス様を信じ、イエス様を頼りに私たち3人の兄弟を育ててくれたように思います。宗教を信じるかどうかは、人それぞれによって違いましょうが、全てを無くしてしまった母のような場合、イエス様を信じ、信仰を持って生きることも立派な生き方ではないかと思います。

大学時代

高校を卒業すると関西学院大学の経済学部に入りましたが、クラブ活動で新聞部を選びました。私の大学生活は、どちらかと言えば学部の教室に通うより、部室に通う日のほうが多かったように思います。それでもゼミだけは必ず出席し、一橋大学から来られた金子弘先生には、どうしたわけかずいぶん可愛がっていただきました。

新聞部でのこと。当時は旬刊で発行していた新聞部は60人程度の大所帯で編集部、報道部、学芸部、業務部などに分かれており、いっぱしの新聞社並みでした。新聞部に在籍したほとんどの先輩たちは卒業後、新聞社に就職しており、私も当然のように新聞記者になることを志していました。その先輩たちは、東の三田新聞(慶応大学が発行)に対抗できるのは西では学院新聞だけだと威張っていましたが、私はいまだに三田新聞なるものを見たことはありません。

私が3回生になり、新聞部の責任者になった時は、ちょうど核実験反対などで学生運動が盛り上がっていた頃で、全学連(全日本学生自治会総連合)の姉妹団体であった全学新(全日本学生新聞連盟)の関西支部書記長として活動に参加しました。その時の全学連の委員長は香山健一さん(元学習院大学教授)であったと記憶しています。

大学時代のもう一つの思い出は、学院の学生会規約の改定を行ったことです。それまで、学校側の理事会に一方的に牛耳られていた学生会の規約を改訂し、学校の経営にも学生側がある程度参加できるようにしました。規約の改訂は学生大会で行われましたが、学校側についた応援団や運動部と激しく対立、立ち往生する議長に代わって私が壇上で立ち上がり、いまでいう強行採決で改定案を通過させた記憶は生々しく残っています。

このようにして無理して改訂した規約でしたが、私の卒業後、60年安保闘争へと学生運動が一段と激しくなり、改訂した新しい規約を利用した左翼系の全共闘(全学共闘会議)の学生たちが全国から学院に乗り込み、学内を混乱におとしいれたと後で聞きました。その後も色々な団体で規約づくりのお手伝いをする機会がありましたが、規約を作ることの難しさはこの時に学んだように思います。

社会に出て

勝手気ままな学生生活を送っていた私でいたが、その結果、就職では随分苦労しました。新聞部の先輩に誕生したてのラジオ局を紹介してもらいまい入社し、昼夜の別なく働き続けたのですが、最後には身体をこわしてしまいました。そうこうしているうちにマスコミというものに疑問を感じるようになり出しました。

マスコミだと言えば、確かにどのような若造でも名刺一枚で誰にでも会えるわけですが、取材して記事にしただけでは仕事をしたという充実感が全くない。また記者クラブに行くと先輩記者たちは朝から花札に興じている。なんだか空しさを感じるようになってしまいました。

ちょうどそのような時、取材先でお会いした大阪証券取引所の理事の方の紹介で、当時、投資信託で頭角を現しつつあった大井証券に再就職することになりました。大井証券では、当初は広報部に所属しましたが、昭和43年に社名も大井証券から和光証券に変わり、本社機構が大阪から東京に移ったのを機会に商品本部への移動となりました。

その当時、生まれたばかりの公社債部のボンドトレーダー課へ配属されました。その時、何もわからぬ私に懇切丁寧に債券のイロハから教えてくれたのが、入社同期の久野良民さん(元和光証券副社長)で、それからしばらくたって、公社債部が大きくなる中で久野さんが部長、私が次長でその期間が相当長く続きました。その間、公社債部は会社の中で稼ぎ頭になり社内外で注目されるようになりました。

久野さんとは、いまでも親交がありますが、私がどうしても久野さんに叶わないと思ったのは、その仕事ぶりのほか、人物の大きさ、人への思いやりであったように思います。

私たちの時代は、八分国債から六一国債までの時代で、債券取引についてはいろいろと新しい手法が開発されました。また折からの原油の値上がりで潤ったサウジアラビアやクエートなどの中東諸国や香港、シンガポールなど東南アジアを回り、日本の国債を大量に買ってもらったことなどは今でも思い出として残っています。その後、誕生したばかりの系列の投資顧問会社が経営危機に陥り、その会社の運用担当の役員として一時出向することになりますが、そこでブラックマンデーなど多くの試練を受けることになりました。

また証券会社在任中は、六甲イレブンの塚原健一さん、村上敬さんと同業であったこともあり、いろいろとお世話になりました。

退職後

40年以上勤務した証券会社を退職してからは、長く住み続けた東京を離れましたが、生まれ故郷の関西にまでは戻らず、名古屋で途中下車し、現在は愛知県の半田市に住んでいます。愛知県は全く無知の土地でしたが、住まいの近くにカトリック半田教会がありましたので、私はたくさんの罪を背負って教会の門を叩きました。

その時の主任司祭の谷川義美神父様は神言修道会の司祭で、長らくパラグアイなど南米で宣教された後、帰国。日本に帰られてからは南山教会の主任司祭などを経て半田教会に赴任され、当時は南山短期大学の教授を兼任されていました。

私が兵庫県のカトリック系の六甲高校の出身だとお聞きになると、非常に興味を持たれ、六甲中学校、高等学校のことについて色々とお聞きになりました。わが家は母も妻も子供、孫たちも全て洗礼を受けていましたので、神父様とは家族ぐるみで親しくしていただきました。その後、谷川神父様は短期大学の学長として教職に専念されるために教会を離れられ、代わりにインドネシア人の神父様が来られました。その時期、母は九十三歳で天寿を全うしました。

その3年後に谷川神父様は再び半田教会に戻って来られましたが、胆管癌によって4年後に帰天されました。その4年間、谷川神父様と教会のお仕事をご一緒しましたが、一番印象に残っていますのは、神父様はご自分の判断に迷われた時、いつも「このような時、イエス様だったらどうされただろうか」と自問自答され行動されていたことです。

かく申します私も、平成24年の夏、岐阜県にある犬山城を家族旅行中、突然倒れ、救急車で半田病院に搬送されました。その時、肥大型拡張心筋症と診断され、ペースメーカーを埋め込まれて、現在、身体障碍者1級の生活を送っています。

谷川神父様がご逝去された後、5年間、二人の外国人の神父様が来られましたが、今年の春から名古屋でホームレスのお世話をされながら宣教活動をされている竹谷基神父様が来られています。竹谷神父様とは定期的に「現代社会とカトリック教会」について勉強会を持っています。この勉強会では、宗教とは何かといったことから、宗教の現代社会に果たす役割まで幅広く話し合っています。


 「人の生涯は草のよう。

  野の花のように咲く。

  風がその上に吹けば、消え失せ

  生きていた所を知るものもなくなる。」     (詩編   103  15~16)



筆者略歴  関西学院大学経済学部卒 和光証券(現みずほ証券)入社 広報室長 公社債部長などを歴任した後 和光投資顧問に出向 運用担当取締役を経て本社に復帰 本社総務部長 常勤監査役。 平成10年退職

おことわり  この小品は、六甲イレブン編集委員会が、出版した「八十路に思う」(2018.5.5発行)から転載したものです


追谷墓園


追谷墓園(おいたにぼえん)は、兵庫県の神戸市にある山手の住宅街に接し、神戸市の象徴ともいえる錨山(いかりやま)に接している。墓園は面積4.3㌶、約3000区画を有する神戸市の代表的な墓地のひとつである。
大正14年に当時の神戸市が国有林の一部を国から譲り受け、同年7月に創設された。
昭和の時代には、昭和13年と42年の二度にわたる未曽有の大水害により、さらに平成7年には、阪神淡路大災害で大きな被害が発生したが、神戸市民などの努力によって修復され、今日に至っている。

僕の祖父である乾 長次郎が、当時、神戸市の助役をしていたこともあって、そこにお墓を作ったようだが、その後、下のほうに開発が進められたため、我が家のお墓は墓園の奥深く、小高い丘の頂上付近に追いやられてしまった。そのためお墓参りに行っても入り口にある墓園のお花屋さんから、30分ほど急坂を登らなければならず、特に夏冬の墓参りは難行になってしまった。最近では、人陰がなくなると、そのあたりには猪が出るといった噂も出たりしていた。

僕の母、康子は東京から神戸に嫁いできたが、祖父に可愛がられていたこともあって祖父の作ったお墓にはことさら愛着を持っていたようだった。
母が、晩年80歳後半で認知症を患い、愛知県美浜町にある渡辺病院の施設に入所する直前まで僕の妻朋子に連れられて40分近くかけて、そのお墓の坂道を登り墓参していた。心臓に持病のある私など、その坂道を登れず、墓園の入り口近くにあるお花屋さんでお墓参りを終わって帰ってくる母を待つしかなかった。

その時、お花屋さんで聞いた話では、「最近の若い人たちは、先祖を敬うといった風潮が少なくなったのか、お墓参りをする家族の年齢も次第に年老い、この墓園が山上に造られているため、坂道を上るほどにほったらかしにしているお墓が多くなってきた。そうかといって墓じまいをするには、整地して神戸市に返さねばならず、そのための費用だけでも150万円から200万円はかかる。その費用を惜しんで、ほったらかしにしておくと、どのような立派なお墓でも石積にされてしまう」と言っていた。




  神戸市が一望できる追谷墓園



  追谷墓園の全景



  入り口にある お花屋さん


おそらく今の若い人たちには、自分の生活が大変で、自分の家のお墓が取り残されて、その周りを猪が徘徊しようが、持ち主のなくなった他のお墓と一緒に石積されようがそのようなことは、どうでもよいことと思う人が多くなってしまったのかも知れない。

僕は、以前、テレビ番組で見た人生相談のことを思い出した。相談を受けていた或る宗派の尼僧が、うだつが上がらぬと嘆く芸人に「あなたは、私が何回言ってもご先祖さんのお墓に行っていない。一度行って墓石をきれいに洗ってきなさい。うだつが上がるかどうかは、その先のことです」と言っていた。先祖の霊があるのかどうか、その霊が何かをしてくれるかどうかより、尼僧の言いたかったのは、この芸人が先祖の霊前で跪き、至らぬ自分を謙虚に反省し、自分の心を大切にすることの大事さを言っていたのではいかと思う。そうすることによって、その芸人には人望も出来、人にも好かれ、良い役回りも自然と回ってくると、この尼僧は言いたかったのではなかろうか。

今年の4月12日、母の命日に家族で神戸までお墓参りに行った。墓参りが終わって帰ろうとしたときに、妻の朋子がこんなことを言いだした。
「お花屋さんの話では、墓園の出入り口に近い方に、たまに空き地が出るらしい。上段のお墓の家族が年をとっている場合、神戸市にお願いしておけば、空き地が出来れば、下段に持ってくることが出来るらしい。わが家のお墓の周りが次々と空き地になっていくのは、市に頼んでおき下に空き地が出来れば、下のほうに移転させてもらっているかららしい」
「ただ大きなお墓の場合、下までおろすには相当の費用がかかるそうだが、今のような場所では将来、お墓参りに来て下さる方にも迷惑だし、今のままではあの地区は我が家のお墓だけになってしまうわ」

その後、お花屋さんで話を聞くと、妻の言う話とほとんど同様であり、申請しておけば空地が出来次第、認可してもらえそうだという。出入り口に最も近い1区から3区あたりまでは、なかなか空きが出ないが、4区あたりならたまには空き地が出るという。現在の我が家の墓は、墓園の最も高いところにある20区であり、4区あたりまで下せば、墓参して下さる方も随分と楽になる。帰宅後、神戸市に電話で聞いてみると、同じような話で、もし希望があれば、申請だけでも出しておいてほしいとのことであったので申請した。




   急坂なため上段は空き地が多くなった



   持ち主がなく石積にされた墓



   移設した乾家の墓


それから数カ月たって、7月上旬、神戸市の墓園管理センター長から書類一式が届き、その中に神戸市長印の押された墓園施設4区使用許可書が入っていた。そこで石材店を選び、お盆までに移設してほしいと頼んだ。令和元年(2019年)8月15日移設完了。

お墓を移設した後、親戚の方々に意見を聞いてみると、皆が墓の移設については、たいへん喜んでくれた。中でも僕の叔母に当たる母の妹の鈴木春江さん(94)は、「お姉さんは、よく、おじいちゃんが立派なお墓を作ってくれたのはありがたいのだが、年をとっては、山の上まで行くのが大変だと言っていた。それでお墓を何とかしなければ、そのうち誰も行かなくなってしまうのではないかと私も心配していた。これで私もひと安心したわ。お墓も賑やかなところのほうが良いのよ」と言ってくれた。

その後すぐ、令和元年10月28日、叔母は亡くなった。
   
                                                                                                                 

                                                                       
追谷墓園

所在地  神戸市中央区

アクセス JR元町駅 JR三ノ宮駅 JR新幹線新神戸駅からタクシー5~10分

お花屋さん はなふじ 078-241-2234
                  (帰りのタクシーはお花屋さんで呼んでくれる)



即成院

僕は、いま、京都市東山区泉涌寺(せんにゅうじ)町にある即成院(そくじょういん)の一角にある浦上宜明君の墓前に妻とともにいる。彼が亡くなったことを彼の娘さんから聞いたのは二ヵ月ほど前にである。

即成院は、京都駅(烏丸口)からバスで10分、泉涌寺道下車、徒歩7分のところにある真言宗泉涌寺派の寺院。寛治年間(1087-94)時の関白藤原頼通は宇治に平等院を建立し極楽往生を願ったが、藤原頼通の子である橘俊綱は、まず現世において極楽な時を過ごし、同時に寿命がつきれば苦しまずに天命を受け、来世には多くの仏様に迎えられ、浄土に誘って頂くことを願って、ご本尊の阿弥陀如来像と25菩薩像を造られたと言う。その後、幾多の時を経て、これらの仏像は、現在の即成院に移されたと言われる。ご本堂には阿弥陀如来像が25菩薩像を従えて、極楽より現世に來迎されているお姿が立体的に現存している。

僕と彼とは、学生時代からの友人であったから、60年以上の仲間であった。我々の学生時代は、学生運動が盛んな時代で「原水爆実験反対」「安保法制成立反対」「米軍基地拡張反対」などをテーマに我々は政府に激しい抗議行動を行った。その時、同時に闘争に参加した同期の10人の同志たちも、ここ数年、次々と亡くなっていった。最近まで存命していた者の一人は胃がんで亡くなり、もう一人は前立腺がんを患い、ひと時良くなっていたように聞いていたが、再発して亡くなった。結局は80歳を過ぎても、まあ何とか元気に過ごしていたのは、僕と彼の二人だけになった。

彼とは学生時代、学部も違ったが、何故か気が合い、社会に出てからも別々の社会で働いていたが、時には居酒屋で飲んだり、旅行なども一緒にした。そして退職後、僕が名古屋に引っ越してからも東京と名古屋で時に会い、特に僕の母が、晩年認知症になり、名古屋の知多半島の先端にある渡辺病院の介護施設に入ってからも、見舞いによく来てくれた。また彼の奥さんが絵を描いていたこともあり、二元展の展覧会が名古屋で開かれた時には妻と共に観に行った。彼は非常な愛妻家であったが、数年前に奥さんに先立たれた時にはショックを隠し切れず落胆していた。それでも息子さんや娘さんたちがよく面倒をみてくれるのだと自慢気にいつも話してくれた。

ただここ2年ほどは、ほとんど会う機会もなく、その間、僕の方が心筋梗塞で倒れ、年に2~3度は半田市の救急車のお世話になるようになり、いちどお互いに会おうと言いながらもそのままになっていた。最近では、ほとんどラインでのやりとりだけになっていた。

2018年8月9日(土)

僕「暑い日が続きますが、大丈夫ですか?実は、一昨日、熱中症で倒れ、半田病院に救急車で搬送された。お互い気をつけましょう」

彼「お互いに若くないのだよ。気持ちだけは、まだ若いので行動との間にずれが出ますね」

2018年8月11日(土)

僕「暑い、暑い。お盆休みはどうしますか?」

彼「年をとると天候不順が特に堪えますねえ。お盆も独り者にはあまり関係ないですね」

2018年9月7日(月)

彼「関東地方の暑さは、少し落ち着きましたよ。昨日は、浦安市の納涼祭に行って来ました。全国の有名な踊りがいちどに見られ、大変盛り上がっていましたよ」

僕「素晴らしかったでしょうね。さすが東京ですね」

2018年10月1日(月)

彼「台風の影響はありましたか?関東地方は、昨夜から今朝までの間、大変な風が吹き、そのあとかたずけに時間がかかりましたよ」

僕「昨夜は相当厳しかったね。風が吹き家が揺れたよ。停電もして、こんなの初めてだよ」

2018年10月7日(日)

彼「今年は、台風やら地震が多発しました。お陰ですっかり体調不良になりましたよ」

僕「ほんとにそうですね。我々の仲間も、もう二人きりになってしまいましたね」

2018年10月16日(火)

彼「久しぶりに貴方のホームページ見ました。『八十路に思う』の中で、僕たちの学生時代のことも書かれていましたね。それにしても昔のことよく憶えていますね。びっくりしました。」

僕「学生時代が、やはり一番楽しかったですからね。お休みなさい」

2018年10月23日(火)

僕「今週は、お天気が良さそうなので、神戸にお墓参りにいく予定です」

2018年10月24日(水)

僕「今日は、お隣のご主人が亡くなられたので、朝からお葬式に行ってきます。次々と寂しくなります」

2018年10月30日(火)

僕「最近、連絡がありませんが、体調でも悪いの。心配しています?」

2018年11月8日(木)

僕「昨日、今日と電話をしているのですが、つながりません。どうかされたのですか?」

2018年12月7日(金)

僕「昨日、自宅で意識を無くしてしまい、半田病院にまた救急搬送されました。慢性心不全だそうです。今回はすぐには自宅に返してもらえず、一週間程度、検査入院をするように言われました。ところで貴方のほうはどうですか?」

2018年12月21日(金)

僕「昨夜、貴方と貴方の奥さんの夢を見ました。懐かしかった。体調でも壊しているの?」

2019年1月1日(火)

「明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします」

2019年1月12日(土)

「お元気ですか?いちど電話下さい」

2019年2月25日(火)

「たびたびお電話しているのですが、応答がありません。体調が整えば、いちど野田のご自宅のほうに伺います。」

僕と彼とのラインでのやりとりはこれで終わった。


それから二週間ほどたった3月8日(金)の朝、彼の娘さんと言う方から電話があり「浦上宜明の娘ですが、父のお友達の乾さんですか?父は昨夜亡くなりました」と電話があった。

娘さんの話では、昨年10月26日に外出先で倒れ救急車で病院に運ばれ、救急隊員の努力によって心臓のほうは回復したが、血圧が上がらず、その後、4カ月以上回復することもなく昨夜息をを引きとったとのことであった。すでに亡くなっていたことでもあり、僕の体調もよくなっくなかったので、娘さんに事情を話してとりあえず弔電と供花を送り「後日、お墓のほうにお伺いさせて頂きます」と言った。

彼の娘さんについては、彼から話を聞いたことはあったが、一度もお会いしたことはなかった。彼のお墓については、息子さんが事業に成功し、自分たちのために京都にお墓まで作ってくれたと喜んでいたことことを知っていたので、納骨が終われば、そちらにお伺いするほうが良いかと思った。それにお墓にお伺いすれば、彼の奥さんにもひさしぶりに会えるとも思った。そのように娘さんに話すと、娘さんにも快諾して頂けた。

その日から一カ月たって、娘さんから「このたび身内だけで父の納骨を無事済ませました。お墓は、京都市東山区にある即成院という寺院の一角でございます。おついでの時にお立ち寄り頂ければ父も母も喜ぶことと思います」とご丁重な案内状を頂いた。

人には、それぞれ人生がある。僕はキリスト教徒であるが、聖書には、死後、人間は天国か地獄に行くようなことが書かれている。仏教においても、極楽と地獄があるようだ。即助院のご本堂で、釈迦如来が多くの菩薩を従えて、極楽浄土より來迎されるお姿を拝見し、浦上宜明君の墓前で手を合わせると、彼はやはり立派なご家族に見守られてこの世を去って行ったのだと安堵した。僕の妄想かも知れないが、彼は今頃きっとあの世で愛妻の桂子さんと仲良く暮らしていることだと思う。

合掌


            
   浦上家の墓
                                          2019.5.30