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私にとってカトリックとは・・・

 

このページは、フエイスブック のプライベイトページ「現代カトリック研究会」に投稿したものの中から一部を抜粋したものです。

 

 教会ミサに参加して

私が愛知県の知多半島にある半田教会にお世話になり始めたのは、今から20年ほど前であった。200所帯程度の小さな教会だが、真面目な方が多く日曜日や大祝日のミサにはほとんどの方が参加する。しかし信徒たちの大半は、ミサが終わればお互いの挨拶もほどほどに逃げるように帰って行き、残っている人たちの話を聞いていても雑談が多く、他人の悪口を言い合うなど、いまミサに預かってきたものとしては恥ずかしいことが多かった。また信徒たちの中には「私がミサに来るのは、神様やマリア様にお祈りをするために来るので他の方たちとは関係ないわよ」と言うようなふるまいをする人もいた。

しかしそれで良いはずはない。イエス様は福音を述べ伝えることによって、神の国は天の上にも、下にもあると言われた。神の国は「あなた方の間にあるのだ」とも言われている。(ルカ福音書17章20ー21)

半田教会の信徒たちも、今は教会で出会う人たちはみな兄弟だといった思いで仲良くやっているが、20年前はそんな教会であった。 

カトリック半田教会。緊急事態宣言期間中、日曜日のミサは複数回に分けて行われた

 

 谷川神父と巡礼旅行

平成20年(2008年)、私が愛知県にある半田教会で信徒会の会長をしていた時、谷川義美という主任司祭がおられた。谷川神父は半田教会に来られるまで、南山教会の主任司祭、南山短期大学の学長をされており、若い時には南米のパラグアイで宣教をされていた。その谷川神父が半田教会に着任されたあと、ちょうど2年で胆管がんに侵され名古屋の日赤病院に入院されたが、手術後、完治されないままに半田教会に戻って来られ、どうしても信徒たちと巡礼旅行をしたいと言われた。

愛知県には、寛文年間(1661-1673年)にキリシタンの殉教地となったところが数多くある。10月23日名古屋市内にある「栄国寺」はじめ尾張地方にある殉教地を巡礼したが、その管理をしていたのは、ほとんどがお寺であった。巡礼が終わったあと、谷川神父は「キリシタンの殉教地を守り、清掃をして下さっていたのは、お寺の方たちでキリスト教信者でない方たちだった。これは宗教が違っても素晴らしい隣人愛だと思った」と言われていた。巡礼を終えて年末に亡くなられたが、そんな谷川神父が、信徒間のトラブル等で仲裁をお願いすると「こんな時、イエス様ならどうされたであろうか、ということを常に考えながら行動することだ」とよく言われていた。

巡礼された時の谷川神父=右から2人目

 

  独居老人の死

昨日、教会から連絡があり浅井(仮名)さんが亡くなられたとのことであった。当日が、お通夜、翌日がお葬式だということであった。浅井さんは、一人息子で最近までお母さまと一緒に暮らしていたが、3カ月ほど前にお母さまを病気で亡くし、最近では、もう何もする気がなくなったと親しかった友人に漏らしていたそうである。浅井さんも高齢者であり、相当身体も弱っていたのではないかと思う。

お葬式に行って、お亡くなりになった時の様子を尋ねると、女性信徒のひとりが「お風呂の中で、死んでおられたそうよ。お風呂につかりながら天国に行けるなんて幸せね」と言っていた。しかし本当にそうであろうか。天国に行けるにしても、やはりこの世でお世話になった家族や友人たちに見守られながら、あの世に行く方が幸せではなかろうか。独居老人が、一人寂しく去っていかぬよう教会も何らかのお手伝いが出来ないものだろうか。

コロナ禍の中で行われた浅井さんのお葬式

 

山上の垂訓

山上の垂訓には、実社会でも役に立つものが多い。例えば、マタイ福音書20章26-27ではイエス様の言葉として「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい」と書かれている。私が実社会で働いていた頃、尊敬していた先輩から「我が我がと、しゃしゃり出てくる者はほっておいてよい。本当に目をかけて引き上げてやらねばならぬのは、常に控えめで、それでいて皆の僕のようになって働いている奴だ」とよく聞かされた。その先輩は、カトリックではなかったが、イエス様の言われていることと符合するように思えた。

カトリック半田教会のお御堂のイエス様

 

 フランシスコのように

梅雨時は花の少ない季節であるが、そんな時、紫陽花は美しく咲き私たちの心を癒してくれる。愛知県半田市にはよく整備された散歩道が多くあるが、私の住む近くの散歩道「長泥の径(ちょうでいのみち)」にも、いま紫陽花が咲いている。

旧約聖書を読んで、キリスト教は人間中心主義だという人もいるが、カトリックにはアシジの聖フランシスコのように太陽、月、火、水など生命の宿らない自然界の一切を神の創造物として人間の同胞と見なし、それを讃えることで神様の偉大さを強調した聖人もいる。彼が、鳥に向かって説教する話や狼を説得して噛みつくのを止めさせたという話は有名である。自然環境保護が言われるいま、そのような考え方は特に大切だろう。

 自宅近くの散歩道に咲く紫陽花の花

 

マリア様は神様でなくても

今月8月15日は、聖母マリア様の被昇天の祝日である。マリア様についてはカトリック教会では、三位一体の神とは区別して、神の母としては崇敬の対象にはなるが、神ではないので崇拝の対象にしてはならないと言っている。しかしイエス様が十字架に架けられた時、イエス様は側にいたマリア様に「婦人よ。ご覧なさい。あなたの子です」と言われている(ヨハネ福音19章25~26)。したがってマリア様は神様でなくても、イエス様にとっては大切なお母様であり特別な存在であったには違いない。またマリア様にとっても十字架に架けられて死んだわが子の遺体を膝の上に抱き、どのような思いをされたことであろうか。

サンピエトロ大聖堂の悲しみの母ピエタ像

 

父の慰霊祭

今から10年ほど前の秋、太平洋戦争で戦死した父の慰霊祭に参加するために西部ニューギニアに行った。その時、たまたま隣の席に座った女性と宗教の話になった。その女性もでカトリック系の学校を出ていたのでカトリック信者の友達が多いという。その女性は「イエス様は偉いとは思うが、信者の友達はあまり好きになれなかった」と言った。カトリック信者の友達を何故好きになれなったかということについては聞き漏らしたが「イエス様の何処が偉いと思うのか」と聞くと「イエス様は常に虐げられた弱い人たちの味方であったし、人びとから見放された何人もの病人を癒された。また素晴らしい言葉もたくさん残されている」と言っていた。それはその通りなのだが、カトリック信者にも素晴らしい女性はたくさんいる。そのことについては項を改めて書いてみたい。

 西部ニューギニアにもカトリックの教会があった

 

女性たちの働き

先にも書いたが、10年ほど前に、私たちの教会に主任司祭として神言修道会の谷川神父が来られたが、2年間ほどで胆管がんを患われた。そこで神父は、名古屋の日赤病院と教会との二重生活を始められた。その時、大活躍してくれたのは女性信徒たちであった。神父が教会におられる時には、地元の胃腸科の病院に勤めていたYさんは、毎日朝夕血圧計を持って教会を訪れ、神父の健康状態を見てくれたし、他の女性たちも当番を決めて身のっ周りの世話をしてくれた。食事も教会の炊事場で作ったり、自宅で作って運んでくれたりした。また神父が入院されるとYさんは、自分の勤務が終わると名古屋の日赤病院まで毎日自分の車で通い、病院の看護師では行き届かない身の回りの世話をしてくれた。その時の女性たちの働きは、我々男性信徒たちにとってはただただ頭が下がる思いであった。イエス様が十字架に架けられた後、女性たちが中心になって働く姿が聖書に書かれているが、私たちの教会にもこうした素晴らしい女性たちが、たくさんいることを誇りに思った。

カトリック半田教会の中庭いあるマリア像

 

11月は死者の月

カトリックでは、11月を死者の月としてすべての死者を記念してお祈りする月と定めている。私なども80歳も半ばを過ぎると、若い時とは違って死ということについて真剣に考えるようになった。振り返ってみると、我々の世代は、幼い時は太平洋戦争の真っただ中、戦後は極度の耐乏生活に耐え、その後の高度成長期には厳しい労働を強いられた。しかし、このような変化に富んだ世の中に命をを与えて下さった神様に感謝し、この地上でたいへんお世話になった妻や多くの方々に感謝しながら、神様に身を任せ、静かな終末を迎えたいと思っている。

カトリック半田教会の名古屋市八事霊園での慰霊祭

 

ビルの谷間でイエス様を見失っても・・・

私は小学校の時、太平洋戦争で父を亡くし、母一人の手で三人兄弟の長男として育てられた。母が敬虔なキリスト教信者であったことから三人の兄弟もそろって洗礼を授かった。しかし社会に出てからは、日常の生活と業務に追われ、ともすればイエス様やマリア様を見失うことが多くなった。それでもカトリックという宗教から完全に離れることがなかったのは、やはり子供の時、父親を亡くした母がイエス様やマリア様を頼りながら、懸命に子供たちを育てる姿を見ていたからだと思う。カトリック作家の遠藤周作氏も自分の著書の中で「神はいつも、だれか人を通して何かを通して働くわけです。私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいのかも知れません」と書いている。私の場合も、神は母を通して私に働き続けていたのかも知れない。

* 遠藤周作氏は書いていないが、悪魔もいつも我々に働きかけていることには用心しなければならない。

私の働いていた東京の大手町界隈

 

 北海道のトラピスト大修道院①

2年前の令和元年(2019年)7月2日。北海道北斗(ほくと)市にあるトラピスト大修道院を訪ねた。その後、新型コロナが流行り出したのですべての旅行は控えている。この修道院は正式には「灯台の聖母トラピスト大修道院」と呼ばれ、明治29年(1896年)10月に日本で初めて造られたカトリック男子大修道院である。名前の由来は、船が灯台の灯りによって導かれるように心の闇に光を照らし、人びとの心を導いていきたいといった趣旨からきているそうだ。私は函館市内でレンタカーを借り、道南エリアを進むと、約1時間で、広大な牧草地に囲まれた北斗市に入る。その先にポプラ並木があり、そこを抜けるとトラピスト大修道院があった。

北海道北斗市にあるトラピスト大修道院

 

トラピスト大修道院②

訪れたトラピスト大修道院は、ほぼ自給自足の生活を送りながら、沈黙のうちに神に祈るという修道院である。この修道院で生活を支えているのは、祈り、労働、聖書研究の三つであるが、祈りの中で特に大切な祈りは「ミサ聖祭」「朝の祈り」「晩の祈り」である。中でも私が最も印象的であったのは、「晩の祈り」である。聖堂のすべての明かりが消された中、中央の聖母マリア像だけが明かりに照らされて浮き上がり、修道士のさん一人ひとりが修院長の祝福を受け、マリア賛歌を歌うながら自室に向かう姿あった。その光景は、あたかもそこに神の国が実現されたかのような感動を覚えた

修道院の中にある大聖堂

 

トラピスト大修道院③

トラピスト大修道院の朝は、3時半起床と早い。3時45分から読書の祈り、5時半から朝の祈り、共同ミサと続く。そのあと朝食をとって修道士さんたちは一日の仕事に入る。牛の放牧、牧草の刈り入れ、野菜作り、りんご園の管理、庭木の剪定、院内の掃除など。修道院の見学が終わって、ひとつ心残りだったのは、ルルドの聖母マリア出現を記念して、裏山に安置されたというルルドの聖母像に行くことであった。そのことを若い修道士さんに言うと、最近は熊だ出たりするので行くことはとても無理だと言う。それでも行ってみたいと言うとそれでは私が車で案内するからついて来なさいと言われ、自分の車でついて行く。途中、修道士さんは何度も「立ち入れ禁止」と書かれた立札を外しながら現地まで連れて行ってくれた。ほんのひと時の滞在であったが、この若い修道士さんに限らず、どの修道士さんも、とても親切であった。あの時から2年、コロナ禍の中、修道士さんたちは、みなお元気に過ごされているであろうか。

修道院の裏山に安置された聖母マリア像