男子フリー競技実況レポート


1998年2月14日夜、男子フィギュア会場の長野ホワイトリング。おとといのショートプログラムで五位に付けていたキャンデロロ選手のフリープログラム滑走順は最終グループの最後から二番目。演技力には定評のある彼がフリーで逆転できる可能性は、まだ十分にある。唯一、心配なのは四回転ジャンプを完成させているライバルたちの動きだった。ショートプログラム一位のロシア代表イリヤ・クーリック選手はこの日も早々と四回転ジャンプを決め、圧倒的な高得点で独走態勢となっている。ところが、五輪の重圧からかキャンデロロ選手より上位にいた選手たちが次々にジャンプで転倒、彼が三位に食い込む可能性が見えてきた。午後10時20分頃、彼の番がやってきた。

長髪を束ね、銃士をイメージした衣装でリングの中央に立つキャンデロロ選手。テレビカメラにアップで映し出された彼は、まるで本当の決闘の前のように、大きく深呼吸したあとで、まわりに薄く口髭を生やした唇をぺろりと舐める。これはすでに演技なのだろうか?そして音楽が流れ始める。

古いリュート音楽のようなフレーズにのせて、彼はゆっくりと氷にカーブを描き、黒の革手袋を付けた右手を大きくふりかざす。その時、彼はもうダルタニャンだった。大きな赤い石の指輪を乗せた手に長剣が握られているのが見えるようだった。トランペットのファンファーレが入り、オーケストラが重なってゆく。軽快な音楽に合わせて、スケーティングの速度は次第に上がる。そして、それが最高になったとき、会場がどっと沸いた。見事な三回転のコンビネーションジャンプが決まったのだ。こんなに効果的でドラマチックなジャンプがいまだかつてあっただろうか?その後、間をいれずに三回転のジャンプを二回重ねる。どのジャンプも安定していていい調子である。練習であのコンビネーションジャンプが一回もできなかったなんて嘘のような出来栄えだ。滑りに合わせて優雅なフェンシングを見せながらスピンとジャンプが続く。

前半の見せ場が終わり、音楽のテンポがスローになってくる。帽子を取って深々と貴族風のお辞儀をする仕草から、そろそろ後半の第二幕が始まる。舞踏会でのダルタニャンだろうか。貴婦人の手を取って、氷の上をくるりくるりと回る。指先まで神経の届いた細やかな演技がロマンチックな雰囲気を醸し出している。踊りが終わったあとのジャンプからが、後半の見せ場。コンスタンスを救うために戦うダルタニャンのように、激しく剣を交えて前進する動作をスケートのステップで表現。まるでスケート靴を履いていないかのような迫力ある足さばきでリング狭しと走り回る。再び音楽がスローに変わり、ジャンプを二回。4分半の演技時間も残りわずか。かなり疲れてきたのだろうか。やや着地がぐらついたが、なんとか転倒は免れ、最後のスピンを決める。そして、静かにお辞儀を前後二回。彼の戦いは終わった。

その瞬間から、会場内は割れんばかりの拍手と喝采の嵐。それに応えようと、何度もお辞儀を繰り返すキャンデロロ選手。「素晴らしい構成!長野ホワイトリングの氷をステージに変えました。」実況のアナウンサーも賞賛を惜しまない。あのクーリック選手の時でさえ、これほどまでには観客の反応はなかっただろう。リンクを離れ、得点を待つ席に着こうとした彼の上から紙製の黄色い羽帽子が降ってくる。熱心なファンが作ったものだろうか。会場はまだ彼の演技への拍手が続いている。帽子をかぶって再び、観客に両手を振るキャンデロロ選手。得点が発表された。技術点は四回転ジャンプがなかったせいか、5.5から5.8。最終グループではごく平均的な点か。客席から不満のブーイングが聞こえる。問題は芸術点。5.85.9が並ぶ。フランスの審判は満点の6点を付けている。期待通りの点数。総合でもクーリック選手に続いて二位の高得点。この時メダルは確実となった。

最後の選手はカナダのストイコ。力強い四回転ジャンプが売りの優勝候補。彼とキャンデロロ選手はリレハンメル五輪でも競ったライバルだ。しかし、この日のストイコは四回転ジャンプを見せなかった。力強さも精彩を欠いた。どうやら怪我をしていたようだ。彼の得点が出た。フリープログラム三位。リレハンメルの雪辱が果たせるか。キャンデロロ選手に銀メダルの期待がかかった瞬間だった。だが、非情にもその夢は叶わなかった。総合順位はショートプログラムで二位に付けていたストイコが0.5ポイントだけ抜きんでていたのだ。

それでも、会場やテレビで観戦していた世界中の人々は、NAGANOの舞台で銀盤の勇者ダルタニャンを演じたキャンデロロ選手を決して忘れないだろう。あのとき観客を魅了したという点においては、間違いなく彼が金メダルだったのだから。彼自身、試合のあとこう語ったという。「いい演技ができたのは、観衆が私を支えてくれたおかげだ。メダルは2個目だが、今大会のメダルは応援してくれた日本のみなさんに捧げたい。」

<文/19 いせざきるい> 


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