ダルタニャンのモデル

歴史上の人物としても有名なシャルル・ド・バッツ・カステルモールは、1615年にジェール県リュピアックにあるカステルモールの小さな城で、貴族ではないがスペインとの交易で安楽な暮らしをしていた父ベルトラン・ド・バッツと、ガスコーニュの名家ダルタニャン家の末娘フランソワーズ・ド・モンテスキューの間に末息子の四男(次男から四男の間説もあり)として生まれた。彼は15歳頃に父を失ったあと、母が遺産相続したヴィック・アン・ビゴール近郊のダルタニャンの領地へついて行く。(1630年頃15歳で上京説もあり)

母方の叔父が元帥の娘と結婚していたおかげで、彼は生まれの良さを示すダルタニャンの名を名乗り、ダルタニャン家のツテを頼って、1635年に近衛連隊に入隊。
銃士隊入隊の年ははっきりしないが、アラス攻略やルッションの戦いなどに参加、1643年には外交上の使命を帯びて、ダルクール伯爵と共にアンリエット・タングルテール王女の旅行に同伴し、イギリスへ渡った。
1646年には銃士隊がマザランによって解散させられたが、1648年6月
マザランの腹心として記録に登場。フロンドの乱の間も、マザランの命を受けて数多くの秘密使命を果たした。1657年に銃士隊が再編され、1658年に忠勤を認められて銃士隊長代理に任命され、名前のみの隊長ヌヴェール公に代わって事実上銃士隊の指揮をとることになる。
1659年にルイ14世が王妃マリー・テレーズに会いに行くためにサン・ジャン・ド・リューズへ赴く際には、国王は自分の護衛隊の指揮官に彼を選んだ。

同じ年に彼は名門貴族のシャルロット・アニー・ド・シャンスリー(アンヌ・シャルロット・ド・シャンルシィ)と結婚し、二人の息子を授かったが二年足らずで別居した。
マザランの死後の1661年、国王ルイ14世は彼に
フーケ逮捕を命じ、ナントからピニョルの砦まで護送した。
1667年には、ようやく
大銃士隊隊長となり、自称「伯爵」を名乗り、1672年リルの総督になる。
1673年6月25日に対オランダ戦に赴いたマーストリヒトで、要人を守るため銃弾を頭に受けて絶命。
彼の遺体埋葬先は埋葬記録が紛失しており、歴史家の間でも謎となっており、Odile BORDAZは、マーストリヒト近郊のwoldenにある教会の墓地に埋葬されたという説を主張している。これは、夏場に戦死した遺体を母国まで送還せずに陣営近くの教会に埋葬した当時の慣習から推測された説である。

*史実のダルも原作に負けず劣らずの軍人気質な忠義者です。<Louis>

参考文献

「ダルタニャンの生涯」(佐藤賢一/著、岩波新書)
「世界の文豪叢書・デュマ」評論社/発行
Les trois mousquetaires / Vingt ans apres (Bibliotheque de la pleiade)」 Gilbert Sigaux/注釈・解説、1962年Gallimard社/発行、ISBN2-07-010180-0
D’Artagnan」 Odile BORDAZ/著、 2001年Balzac editeur社/発行、ISBN2-913907-20-2
「D’ARTAGNAN」 Stephane BAUMONT/著、1999年Edition Privat社/発行、ISBN2-7089-5413-X
「D’ARTAGNAN」Eugene d’AURIAC/著、1993年Editions de la table Ronde社/発行、ISBN2-7103-0559-3

©2009.2改訂 三銃士ファンクラブ銃士倶楽部/文:No.19 いせざきるい>

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