三銃士ファンのための「フロンドの乱」講座

ルイ十三世の死後から太陽王の時代到来までの間に、およそ十年に渡ってフランスを席巻したこの内乱は、民衆から貴族までそれぞれの階級の思惑を乗せて、複雑な人間模様を展開させてゆきます。


1643年:ボーフォール公ヴァンセンヌに投獄される

アンリ四世の孫にあたるボーフォール公(右上肖像画)は宮廷内の貴族グループ「要人派」の中心人物で、マザラン(右下肖像画)の専権を見るに忍びずに、アンヌ太后に対して事あるごとに彼の罷免を要求していた。一方、彼を危険人物と警戒していたマザランは公爵らが自分の暗殺計画を進めているとの報告を聞いて、太后の承認を得ると、電光石火の早業でボーフォール公を捕らえてしまった。

このあと、昔からの太后の側近シュヴルーズ公爵夫人オートフォール嬢もマザランの進言でパリを追放され、大貴族の間にマザラン不信が募ってゆくことになる。

1645年:増税に反対するパリのアール市場立ち上がる

三十年戦争で財政が傾いた政府は重税で国庫を補おうとした。一方、パリ高等法院は民衆を庇護、宮廷と対立する。こうして、マザラン枢機卿の邸の窓から、「フロンド」と呼ばれる石投機で石が投げ込まれたのがフロンドの乱の始まりといわれている。

1648年:高等法院の主要メンバー三人が逮捕される

パリがコンデ公の戦勝に沸き立っている隙をついて、アンヌ太后は対立する高等法院に鉄槌を加えた。この事件のためにパリの民衆たちは法官の釈放を求めて一斉に立ち上がることになる。ダルタニャンたちが再会し、再び活躍するのは、ちょうどその頃のことである。

「フロンドの乱」を操る謎の美女ロングヴィル公爵夫人

ロングヴィル公爵夫人、アンヌ・ジュヌヴィエーヴ(左肖像画)は1619年ヴァンセンヌの牢獄の中で生まれた。彼女の両親はアンリ四世に叛逆した罪で捕らえられたコンデ公アンリ二世とシャルロット・ド・モンモランシー。

1643年、彼女がロングヴィル公爵と結婚した翌年に、このアンヌがモーリス・ド・コリニー伯へ恋文を送ったと、モンバゾン公爵夫人が宮廷内で言いふらしたことから一つの事件が起こる。モンバゾン公夫人は以前のロングヴィル公の恋人だったこともあり、アンヌと仲たがいする。そして、貴族たちがこの二人にそれぞれ味方をした(アンヌを擁護するコンデ公や太后、マザランの一派とモンバゾン公夫人を擁護するボーフォール公ら「要人派」)ことが、フロンドの乱のそもそもの発端だと言われている。そしてこの年の終わりには二人の女性の代わりにコリニー伯と傭兵のギュイズ公がロワイヤル広場(あの新王宮前広場)で決闘し、アンヌの恋人コリニー伯は命を落とす。

その翌年、弟のアンギャン公(大コンデ)が三十年戦争で決定的な勝利を収め、平和会議の代表となった夫のロングヴィル公とともにムンスターに赴くが懐妊のため1647年に単身パリへ帰ってくる。

この頃彼女の恋人となったのは、元シュヴルーズ公爵の恋人で、まるでアラミスさながらの行動をとるマルシャック公ことラ・ロシュフーコー公爵だった。公爵はもともとリシュリューに敵対し、アンヌ王妃派だったが、リシュリューの死後も大切に扱われないことを不満に思い、マザランに敵対していた。ロングヴィル公夫人は、マルシャック公の影響もあって、弟のコンデ公と袂を分かち、進んでフロンド派に立つと、軍の指揮をするなどの目覚しい活躍をすることになる。

貴婦人たちの戦争

「女というよりは、天使と呼ぶにふさわしいフランス一の美女」といわれたロングヴィル公夫人はフロンド軍の士気を鼓舞し、敵の将軍たちを誘惑していった。

一方、この頃になるとパリから追放されていたシュヴルーズ公爵夫人やロングヴィル公夫人と大喧嘩したはずのモンバゾン公夫人までがパリに舞い戻ってきて、フロンド軍に合流する。公爵夫人たちは、まさに戦争の女神気取りでそれぞれ軍の役職を分担し、大将とか少佐とか中尉といった階級を創設して役に就いていた。

参考文献:
「パリ物語2 その歴史の主役たち」寺中咲作雄/著、1980年新装版、東京美術/発行


三銃士データベースへ

<三銃士ファンクラブ銃士倶楽部:レポート/No.19いせざきるい>