「ダルタニャン物語」において、時系列でポルトスの行動を追った年表です。日時が判明するものについては出来る限り押さえてみました
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ポルトス誕生(自称天涯孤独)
1625〜1626
剣帯の一件でダルタニャンと決闘の約束、護衛士との一戦に助太刀してもらい友情を結ぶ(4月中頃〜)
ダルタニャンから宮廷の陰謀を聞き、協力することに(7月中頃〜)
ダルタニャンの采配により、三銃士とイギリスへ向かう(9月20日)
シャンティの酒場で言いがかりをつけられ、一行から離脱
乱闘で受けた傷を癒すためシャンティの宿屋に逗留しつつ、パリの恋人に金の無心をしていていたが、ダルタニャンが迎えに来たので銃士たちと一緒に帰還(10月4日〜)
リュクサンブールの裏手でイギリス人と決闘し、一人追い払う(10月下旬〜冬頃、翌年4月頃か?)
1622〜1627
コクナール家の食事に呼ばれ、出陣準備をしてもらう約束をとりつける(4月頃)
ダルタニャンのボナシュー夫人との逢引に付き合う(4月末頃水曜日の夕方シャイヨ街道6〜7時)
ラ・ロシェル包囲戦に出陣(5月1日)
国王発熱のためヴィロック滞在(6月28日)
国王と共にラ・ロシェル到着、ダルタニャンと合流(11月)
アトスらと赤鳩亭で飲み、枢機卿の護衛を依頼される(12月3日)
サン・ジェルヴェ稜堡の戦い(12月4日朝)
ミレディの動きを止め、バッキンガム暗殺を阻むため、仲間と画策
1623〜1628
国王の護衛で三銃士と共にサン・ジェルマンへ一時帰還(8月15日頃〜)
ポーツマスでバッキンガム暗殺(8月23日)
パリ到着。休暇をもらう
ベチューヌのカルメル会修道院に到着、アルマンティエールでミレディ処刑に立ち会う(8月25日〜)
国王の護衛でパリを出発、ラ・ロシェルへ戻る(9月6日)
国王と共にパリ帰還(12月23日)
1629〜1645
銃士を引退
コクナール夫人と結婚し、デュ・ヴァロンの土地で暮らす
1646
ダルタニャンへ狩猟の招待状を出すが、届いたのは7ヵ月後(10月)
この頃、コクナール夫人が亡くなり、ド・ブラシューの土地を買って移住するが、周囲の貴族とうまくいかず一人ぼっち
1648
ピエールフォンにやって来たダルタニャンの誘いで、再び国王に仕えるため上京を決心する(1月20日〜)
パリで落ち合ったダルタニャンと一緒に、脱獄したボーフォール公を追跡するが、アトス・アラミスに阻まれ失敗(5月中頃の聖霊降臨節前)
王宮前広場で、決闘のためアトス・アラミスと会い、仲直り。
1649
国王・王太后・枢機卿のパリ脱出に協力(1月5日)
マザランの命で、モードントについて渡英し、国王軍にいたアトス・アラミスを捕虜にする
チャールズ1世救出のため、三人の仲間とロンドンへ向かう
チャールズ1世処刑(1月30日)
モードントと対決。ブローニュ経由で帰国後、ダルタニャンと行動し、枢機卿に反逆罪で逮捕監禁される
リュエイユの牢から脱獄し、マザランをピエールフォンへ拉致(〜3月11日)
王太后に条約調印を促し、銃士隊長の辞令を拝領。
国王のパリ帰還を護衛、ボナシューを撲殺する(8月18日)*国王帰還は史実では1652年10月21日
1661
ヴァンヌの司教となったアラミスに誘われ、ベル・イルの設計技師として働く
マザラン死亡、ルイ14世の親政始まる(3月9日))
ベル・イルでダルタニャンと再会し、ヴァンヌのアラミスのもとへ案内する
アラミスに頼まれ、パリのフーケ邸へ至急の手紙を届ける
ダルタニャンと共にフォンテーヌブローのプランシェの別荘に滞在する(6月)
国王の会食に招かれる
ダルタニャンに薦められペルスランの店でヴォーの祝宴に着る服を採寸
ヴォーの祝宴でアラミスと国王すりかえ、投獄(8月17日)
アラミスとベル・イルへ逃亡(8月18日)
ベル・イルでアラミスと反逆者として追い詰められ、死亡(9月)
<レポート:いせざきるい/©三銃士ファンクラブ銃士倶楽部2010>