アトス関連年表

「ダルタニャン物語」において、時系列でアトスの行動を追った年表です。日時が判明するものについては出来る限り押さえてみました

1595〜1599

アトス誕生(ベリー地方ヴィトレ)
*「銃士の青年時代」によると1595年誕生だが、「二十年後」に49歳だったことから逆算すると1599年生まれ
*母はマリー・ド・メディシスのそば仕えをしていた

1610〜1614

15歳の頃、アンリ四世から下賜されたギリシャ彫刻に夢中に
イギリス旅行で、英語を習得

1620

アンジューの戦いに参戦後、16歳のシャルロット(ミレディー)と出会う
*「銃士の青年時代」の記述より

1625〜1626

フェルー街の居酒屋で護衛隊に不意討ちされ大怪我(4月中頃〜)
ダルタニャンとトレヴィル邸の裏の戸口でぶつかり、決闘、友情を結ぶ
護衛隊を打ち負かした一件で三銃士と共に国王と謁見

ダルタニャンから宮廷の陰謀を聞き、協力することに(7月中頃〜)
トレヴィル邸で晩餐後同席の貴族と談笑、10時頃ダルの家を訪問して護衛隊に捕縛
バスチーユに投獄されボナシュー氏と対面、フォール・レベックの監獄に移されるが、トレヴィルにより監獄から救出される

ダルタニャンの采配により、三銃士とイギリスへ向かう(9月20日)
アミアンの宿屋でにせ金づくりと間違われ、酒蔵に二週間ほど篭城

アミアンの宿屋にダルタニャンが迎えに来る(10月4日〜)
イギリス人と賭けをして、馬を取られる

1627

出陣準備のため外出しないことに(出陣前二週間)
リュクサンブールの裏手でイギリス人と決闘し、一人倒す
トレヴィル殿が訪問、アラミスが僧衣の件で相談
ミレディに肩の烙印があることをダルから聞き、外出禁止令を解く

サファイアの指輪を売り払い、出陣準備を整える。(4月29日)

馬車で護送されるボナシュー夫人に会いに行ったダルタニャンに付き合う(4月末頃水曜日の夕方シャイヨ街道6〜7時)

ラ・ロシェル包囲戦に出陣(5月1日)

国王発熱のためヴィロック滞在(6月28日)

アンジューの毒ぶどう酒と共に、三銃士からを騙った偽手紙届く(11月)
国王到着と共に、三銃士合流

赤鳩亭でミレディーと再会(12月3日)

サン・ジェルヴェ稜堡の戦いで大手柄(12月4日朝)

ミレディの動きを止め、バッキンガム暗殺を阻むため、画策する

1628

国王の護衛で三銃士と共にサン・ジェルマンへ一時帰還(8月15日頃〜)

ポーツマスでバッキンガム暗殺(8月23日)
パリ到着。休暇をもらう

パリからベチューヌに出発(8月24日夕)

ベチューヌのカルメル会修道院に到着(8月25日〜)
アルマンティエールでミレディ処刑

パリ帰還(8月30日)

国王の護衛でパリを出発、ラ・ロシェルへ戻る(9月6日)

国王と共にパリ帰還(12月23日)

1631

トゥーレーヌ(ロワール)を旅行
ルーション(ピレネー)で遺産相続し、銃士隊除隊

*三銃士の引退順は、「三銃士」編のエピローグによると「ポルトス→アラミス→アトス」、「20年後」編第6章によると、「アトス→ポルトス→アラミス」

1633

重大な使命を帯びていた旅の途中、ローシュ・ラベイユでシュヴルーズ公爵夫人と旅先の一夜を過ごす(10月11日)

1634

ローシュラベイユの教会に届けられた赤子を引き取る(10月11日)

1642

近況報告の手紙をダルタニャンへ送る(6月)

1648

脱獄したローシュフォールやアラミスと連絡を取り合い、ボーフォール公脱獄のためにグリモーを貸し出す(1月20日〜)

ブロワを訪れたダルタニャンと再会(4月頃)
二通の手紙(アラミスとモンバゾン公妃か?)を受け取る
ラウルを連れてパリへ
シュヴルーズ公爵夫人にラウルの出自を打ち明け、就職先の世話を依頼
スカロンのサロンを訪問
翌日ラウルの出陣をサン・ドニまで見送る

アラミスと一緒にボーフォール公の脱獄を手助けするが、追っ手として現れたダルタニャン・ポルトスと敵味方に(聖霊降臨節前の5月中頃)

王宮前広場で、ダルタニャンらと仲直り

四人の会食の場に戻ってきたグリモーにより、ミレディーの息子が首斬役人の懺悔を聞いて、パリへ向かったことを知る

ランス戦勝(8月20〜26日
ラウル帰還

ウィンター卿の訪問を受け、イギリス王妃と謁見
アラミスと英国王を助けるために渡英

1649

ニューカッスルの戦い(1月5日〜)
英国王からガーター勲章を拝領
マザランの命でモードントに随行していたダルタニャン・ポルトスと再会
ダルタニャンらの捕虜となる
チャールズ1世救出のため、三人の仲間とロンドンへ向かう

チャールズ1世処刑(1月30日)
処刑台の下で、国王の遺言を聞く
モードントに海に引きずりこまれ、止めを刺す

ブローニュ経由でアラミスとパリ帰還(2月1日)

イギリス王妃に英国王が処刑されたことを報告(2月8日)

シャラントンの戦い(2月9日)
戦場で敵軍のラウルと再会し、捕虜にする

行方不明になったダルタニャンたちが捕縛されたことを突き止める
ダルタニャン解放のため王太后に拝謁するが逮捕され、リュエイユの牢へ入れられる

ダルタニャン・ポルトスと共にマザランを拉致し、リュエイユの牢から脱獄、ピエールフォンへ(〜3月11日)
王太后から青綬を拝領

国王パリ帰還(8月18日、史実では1652年10月21日)
ブロワの領地へ戻る

1660

ラウルが1年ぶりにブロワに帰郷(5月中頃)

チャールズ二世の訪問を受け、さきの英国王の遺言を果たすために渡英
イギリスでモンク将軍に謁見し、埋蔵金を運ぶ許可を得るが、将軍が行方不明になったため、陣営に拘束される
ダルタニャンを伴って戻ってきた将軍とイギリスへ向かう

チャールズ2世ロンドン帰還(5月29日イギリス王政復古)
ロンドンでダルタニャンと再会
チャールズ2世やモンク将軍と謁見
英国王から金羊毛勲章を賜る

英国王の特使として、フランスに帰国後に新王宮で国王と謁見
ラウルと再会
*物語ではこれから15日後にマザランの死

1661〜1664

マザランが死に、ルイ14世の親政始まる(史実では3月9日
国王の密命を受けたダルタニャンと別れて二日後、領地へ戻る

王弟フィリップ・オルレアン公結婚(史実では3月31日
ラウルがブロワへ帰郷し、ルイズとの結婚を願い出る
ラウルの結婚の許しを得るために、パリで国王と謁見するが、居に染まぬものだと見破られ、承諾を拒否される
新王宮でダルタニャンと結託し、ワルドの中傷を諌め、ラウルへ謝罪させる
翌日領地へ戻る

イギリスへ派遣されていたラウルが帰国し、ルイズの消息を知る(8月?日)

上京して国王と再度謁見(8月11日)
息子の結婚承諾が得られず剣を折る
国王を侮辱した罪でバスチーユに連行されるが、監獄長との会食中にダルタニャンが国王と交渉し、即釈放となる

ラウルと共に永遠にパリを離れ、ブラジュロンヌへ戻る

反逆罪で逃亡中のアラミス・ポルトスがブラジュロンヌに立ち寄ったのを見送る(8月18日)
ボーフォール公爵が訪問し、ラウルをアフリカ遠征に誘う
遠征の準備のため、ラウルを伴って上京する(翌日)
ダルタニャンに会うため、プランシェの店を訪ねる

ラウルを見送るためトゥーロンへ同行(8月下旬〜)
サント・マルグリット島でダルタニャンと再会

ラウルの訃報が届く直前に病死(10月頃)
直後にダルタニャンが到着し、葬儀に参列

 

<レポート:いせざきるい/©三銃士ファンクラブ銃士倶楽部2009>

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