(98.7.27)(04.10.18)
半田3.6kmコース 半田2kmコース 半田4kmコース
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酒の文化館![]() |
酢の里![]() |
雁宿ホール前の広場には市制50周年を記念して制作された、清水九兵衛作「燿帆」(ようはん、左図)
が設置されています。
これは海浜に栄えた半田市のイメージに結びつくのだそうです。
別の一郭には「ふれあい」(右図)があります。
市政30周年記念事業として制定された、半田市民憲章の制定30周年記念とし設置されました。
平成9年7月11日除幕式が行われ、私も出席してきました。
案内標識に従って名鉄の歩行者専用踏切を渡り、ユニーの角を曲がってしばらく行くと
国指定重要有形文化財の
中埜邸のすぐ先に小さなお社があります、石柱を見ると
更に、案内標識に従って進むと、龍台院のすぐ東に位置して
更に摂取院の東側に
順正寺の角で左折して住吉保育園、住吉公民館、日本福音ルーテル教会の横を過ぎて
しばらく行くと
薬師寺から真っ直ぐ進んで、信号を渡り、JRの踏切を通って、半田小学校の前を
過ぎて、もう一度信号を渡って、十ヶ川の堤防のところで右折して進んでゆくと、
左手には
この屋敷内には、明治23年(1890)3月30日、陸海軍大演習が行われた際の大本営跡 があります。なお、大本営の建物は現在は雁宿公園内にあります。
もう少し進んで大通りに出る手前右手に
主婦の店の前の横断歩道を渡ったところにある案内標識は左折するようになっていますが、
この道は現在(H9.7)工事中ですから、真っ直ぐ進んで行くと
更に進んでJRのガード下をくぐると、
駅前通りでいろいろお店が並んでいますが、今一つ活気が感じられません。
平成8年、ランブリングタウン計画と言うのが発表されて、活性化に向けて動きだして
いますが、今のところ区画整理で立ち退いた跡の空地ばかりが目につきます。
ここを通りすぎると、最初に通ったユニーの角のところにつきます。この先は最初
歩いた道をもう一度歩いてもよいし、このままやめてもかまいません。
公園を出ると少し下り坂になります。すぐ左手に市民プール があって、その先の信号のところを真っ直ぐ行くとまた上り坂が続きますが、 コースは公園を巻くように右折して進みます。雁宿小学校の前をすぎると、
その向こうに
ここは平成9年9月新装なったばかりです。朝市と言えば、半田では三八の市が昔から有名ですが、最近ではほとんど毎日、 市内のどこかでこういった市が開かれています。
南区にも五十即売市があります。 こちらもよろしくお願いします。
続いて案内標識に従って、左折し、2回右折すると、ISHIHARA の角に出ます。そのすぐ先が雁宿駐車場で、そこに
その先が出発点の
(04.10.18)(10.25)
この像は花井探嶺(芳五郎)(1879-1954) が、大正11年(1922)に、国鉄半田駅で働く荷扱いの人々をモデルに製作し(コンクリート製)、文部省美術展覧会に出品したものです。 それを半田町に寄贈し、昭和6年(1931)に星崎浄水場に設置されたのですが、平成3年3月ブロンズ製につくりかえここに設置されました。
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| ちから像 | 星名池 |
歩道橋を渡って名鉄河和線の左側を進みますが、その前に踏切の向こう側の小路の入口に星名池地蔵堂がありますから、
ちょっと立ち寄ってみることにします。
星名池地蔵尊の由来
明治42年(1910)上半田の榊原源之助氏外9名が発起人となり地蔵堂の建立を計画し、地蔵尊を岡崎の石材店に注文、 舟で半田港まで運ばれた。
地蔵尊は高さ60cmの立像で六地蔵の部類では延命地蔵に属するものと思われる。
地蔵尊は過去に星名池で水死して人々の霊を慰め、水難から住民を守ることを祈願するためで、同年9月最初の供養が盛大に行われた。 それ以降毎年1回お地蔵さんの前の広場に舞台を造り、夜遅くまで電灯を点し、芝居や獅子舞、万歳、浪花節等が催された。
星名池地蔵尊のお堂は当初池全体が見渡される小高い町角で、日当たりの良い場所に祀られていたが、 今では星名池もなくなり、家並に囲まれ、お堂の位置も時代によって変わってきた。
平成16年9月23日案内標識より
元に戻って北進し、出口町の信号で右折、名鉄の踏切を越えたところに
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| 住吉神社 | 宮池 |
住吉神社
祭神 仲哀天皇、神攻皇后、底筒男命、仲筒男命、表筒男命
創建 不詳、古くは入水下天神→住吉大明神
沿革 天保9年(1838)入水神社と改称、昭和27年(1952)住吉神社となり現在に至る。半田市誌より
半田市指定無形民俗文化財ちんとろ祭の三番叟(昭和50年7月28日指定)
寛政(1789〜1801)のころ、津島神社の祭礼である、まきわら舟にならったものが「ちんとろ舟」の由来とされ、 住吉神社の宮池にうかぶ住吉丸、入宮丸の上で氏子の童子が三番叟を舞い奉納する。この童子は4歳から小学校低学年までの、 児童で笛、鼓、拍子木に合わせて舞うもので、この時の三番叟の囃子が「チントロチントロサッサイ」というところから、 その名が由来したといわれる。
北組住吉丸の三番叟は男三番叟といわれ、男らしく活発であり、南組入宮丸の方は女三番叟といわれ、 総てがおとなしく優雅である。このような幼児の舞う三番叟は全国でも稀である。案内標識より
神社を出て宮池の左側を進み、国道247号に出て左折すればすぐ左に
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| 赤煉瓦建物 | 秋葉社 |
前に歩道橋がありますからそこを渡って左側の道に入ります。
その前に、右手に常夜灯が見えますからそちらに立ち寄ってみます。
秋葉社縁起
秋葉社は防火の神様をお祀りしています。
ここの道は江戸時代、半田港が開かれるまで千石船の出入りする大野港と下半田を結ぶ紺屋(こんや)海道として賑わった道です。
明和3年(1766)正月20日、亀崎村から出火し、村の主要部を焼き尽くす大火となりました。 この火事により上半田の住民に強い防火意識が芽生えました。ところが、暫くの間冷害による農作不況が続き、 文化、文政年間(1804〜30)になってようやく豊作となり、住民も経済的余裕が生まれてきましたので、 住民達は浄財を出し合い4ヶ所(北講、紺屋海道講、南講、西条講)に秋葉社を建てました。案内標識より
ここまで来たところで時間切れとなってしまったので、以下続く・・・・・その続きです。(04.10.25)
上記秋葉社の前の道が紺屋海道ですが、半田4kmコースは一つ向こうの道で、
ここを進めば右手に海照山薬師寺がありますから、
ここで左折します。ここから先は3.6kmコースと共通になります。住吉町6の信号を越え、JR武豊線の上半田踏切を渡り、
半田小学校の前を通って、本町3の信号を越え、次右折、次左折して半田運河(十ヶ川)の手前で右折して運河の右を進み、
新橋のところでそのまま真っ直ぐ進むのが3.6kmコースですが、4kmコースはここで左折し、橋を渡ってから右折して、
運河の左を進みます。運河の向こうに見えるのが中埜酒造(国盛)の工場です。
新橋のたもとにはお地蔵さんの祠があります。また、その向こうの運河沿いの遊歩道には記念碑が建っています。
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| お地蔵さんの祠 | 遊歩道の記念碑 |
ここの遊歩道には私達夫妻の名前を書いた煉瓦が埋め込まれています。犬の糞でもあるといかんと思い点検してきました。
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| 半田運河 | 国盛の工場 |
源兵衛橋まで来たところで右折して、少し先で左折して横断歩道を渡って左折、半田運河の手前で右折して遊歩道を歩きます。 なお、横断歩道からは再び3.6kmコースと合体します。私としては源兵衛橋の下を通って遊歩道に出る方を推奨します。
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| 源兵橋 | 半田運河遊歩道 |
遊歩道が終わったところで右折し、中村公園の中を通ります、右手には酢の里があります。
銀座本町を越えて、JR武豊線のガード下を通り、南末広の信号を越えて、名鉄知多半田駅の右にある河和線の踏切を渡れば、
斜め右前に雁宿ホールがあります。
文明4年(1472)榊原安左衛門が十王堂を建て、26年後の明応7年(1498)賀天和尚の時
摂取院を建立しました。当初天台宗であったが、天明2年(1782)改宗して西山浄土宗に
なったと言います。
順正寺の開基は宗閑法師と言う人で、永正十年(1513)この地に道場を創建して、
京都の本山実如上人から阿弥陀如来絵像(方便法身尊像)を賜って安置しました。○谷本願寺実如花押と記されていて、上半田地域を16世紀頃には坂田郷と称していたことが分かります。
永正十年庚酉六月二十八日
小林光明寺門徒
尾州智多郡坂田郷
○○場 ○○
(○は字体不明)
第六世休玄法師は中興の業をなした人で、寛文8年(1668)大野の光明寺より木佛と
尊像と寺号とを譲り受け、始めて順正寺と称することになりました。
この木佛は鎌倉時代初期、安阿弥の作でこれも有形文化財となっています。
順正寺のホームページ があったので勝手にリンクさせてもらいました。
薬師寺は弘安2年(1279)樽水村(現在の常滑市)から片岡三左衛門という名の漁師が
坂田村(半田村の旧称)に移住し建立したということです。また海照山の山号は往時、
寺の前まで波が打ち寄せていて、堂の影が照映していたところから名づけられたと
伝えられています。
かなしいときは貝殻鳴らそ南吉については、岩滑コースのときにふれたいと思います。
二つ合せて息吹をこめて
静かに鳴らそ貝殻を
この丘の麓には巌谷小波句碑がひっそりと建っています。
更に小展望台もあって、こちらからは木々の間から僅かに下界の景色を覗き込むことができます。
東南海地震は私にとっても恐ろしい経験でしたが、戦時中のこととて被害状況などに
関する情報などは全くなく、ただ町の噂に右往左往するばかりでした。
この時の犠牲者は中島飛行機山方工場における方々だそうです。この工場は元は
紡績工場で、飛行機を生産するために支柱、隔壁などが撤去されていたために脆くも
倒壊し150人以上が犠牲になったということです、人災と言うほか有りません。
東南海地震に関しては、昭和26年(1951)7月15日に建立された「追憶の碑」、
昭和34年(1959)8月に建立された「殉難学徒の像」もあります。
平成11年11月24日に風葉生家、美濃半薬局の前に「誕生碑」が建立されましたが、
同時にここにも風葉の略歴を載せた「説明碑」が設置されました。
半田市のホームページを見ていていつも思うのですが、
南吉
があって風葉がない、
空の科学館
があって博物館がない、というのは片手落ちのような気がします。
それなりのポリシーを持ってやっていることと思いますが、どうも納得できません。
この碑はもっと古いものとばかり思っていましたが、日付をみると昭和27年(1952)10月となっていました。
何だ俺より若いんだ。
明治8年2月3日半田村の薬種商「美濃半」に父小栗半左衛門、母きぬの長男として出生。
23年3月上京、24年尾崎紅葉に入門、29年12月半田の酒蔵を舞台とした「亀甲鶴」を発表し出世作となる。
33年11月豊橋の加藤倉次の長女籌子と養子結婚。
38年3月5日より読売新聞に「青春」を連載する。風葉にとっては勿論、当代においての代表作となる。
大正8年8月熱海海岸「お宮の松」の下に風葉自作自筆の「宮に似たうしろ姿や春の月」の句碑建立。
大正15年1月12日心嚢炎を発し、15日永眠する。享年52才、戒名「友慶院釋風葉」
辞世の句は「煎薬の香に朝寒の寝ざめかな」
「風葉碑」は籌子夫人の揮毫、裏面には徳田秋声自筆の撰文が刻してある。
半田市文化協会創立20周年を記念して風葉生家前に「小栗風葉誕生之地」碑(揮毫は梅原猛氏)を建立すると共に、
この説明碑を設置する。
また、裏手にはちょっとした遊歩道や休憩所もあります。
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