(99.6.14)(99.7.12)
駅から東に向かって立派な道が延びていますから、この道沿いに進みます。
なお、坂部橋の向こうに「ふれあいの森 1.2km」のかんばんがあります。
左手に見えるのが英比(えいび)小学校です。
ほどなく
ふれあいの森から先は急に道が狭くなります。
やがて左に曲がり、すぐ右側の道はスキップして、次の道に右折して入って行きます。
注:この先しばらくは道が良く分からなくって、山道を大分ウロウロしました。 正規のコースかどうかは保証出来ません。
やがて地蔵池揚水機場があります、ここの左側の山道を入って行くと、やがて「水を大切に」 と書かれたタンクが見えます。ここが
その隣に
池を回り込んで行けば、
この辺りには、板山長根古窯があるようで、しばらくうろうろと探してみましたが見つかりません。
しばらく行くと、県道46号西尾知多線にぶつかりますが、すぐ手前にある並行した道に入って行きます。
左手にはトマトハウス団地が見え、はるか彼方には調整池の大きなタンクを見ることが出来ます。
再び西尾知多線にぶつかります。
阿久比板山の信号を渡って、福山川の向こうの小道に左折して入ってゆきます。
すぐ左手に
お隣が知多四国13番の
本尊は無量寿如来である。寺伝によると文禄2年(1593)洞雲院2世久山昌察大和尚を開山とし創建された。 慶安元年(1648)現在地に堂宇を移し今日にいたっている。
現在の本堂は、江戸時代の慶安・享保・文化年間の3度の改築を経て、昭和57年(1982)9月に建立されたものである。
本堂の西隣には、聖観音をまつった観音堂がある。この本尊は9年に一度の開帳の時にしか目にすることのできない秘仏である。
境内の地蔵堂には、耳の遠い人が穴のあいた柄杓を供え、お祈りをするとよく耳が聞こえるようになるといわれている、 天白地蔵が安置されている。明治・大正時代には三河地方や伊勢方面の地名のある柄杓もよく見られたと言われている。案内標識より
もう少し行くと知多四国14番の、
寺伝によると、今川勢の家臣岡戸称宜左衛門が永禄3年(1560)の桶狭間の戦の後、福住に住み緒川にある曹洞宗の乾坤院4世・ 亨隠慶泉大和尚を拝請し開山した。といわれている。現在も乾坤院の末寺で、本尊は華厳釈迦如来坐像である。 門前には、福住村出身者の岡戸半蔵の像が行者堂にまつられている。元の道に戻って少し行くと右手に見えるのが
案内標識より
岡戸半蔵行者像は以前博物館で見たのと同じように思いました。
境内には山神社もありました。(写真の左端)
もう少し行くと、福住橋があってその向こうが福住老人憩の家です。
ここを右折して広い道を進めばやがて福住交差点で、更に進めば道は右にカーブしますが、
このところの左手に白沢グランドの標識があります。
もう少し行くと信号がありますが、この近くに
白沢グランドの標識のところに戻って、標識に従って進めば、
元の道を、知多半島道路の下をくぐって道なりに進めば、名鉄白沢駅の向こうの白沢駅西信号の向こうに、

北原天満宮
北原天満宮の社伝によると、天暦9年( 955)旧暦の正月25日、英比(あぐい)の土豪、菅原雅規(まさのり)公は、
延喜3年( 903)太宰府で没した祖父菅原道真公を祭神として、英比麿(幼名)と呼ばれていてころの住居跡に、
神社を建てたと伝えられている。
明治5年(1872)明治政府は社寺合併の方針を全国の県に布告したが、北原天満宮は他の5社より2年遅れて、
明治11年(1878)6月白沢字北根の八幡社に移され合祀された。
その後昭和8年(1933)現境内の南西隅に、本殿跡地であったとの石碑や筆塚・牛像などを設置し跡地の保存に務めた。
昭和63年(1988)10月2日、整地拡大された跡地に現在の社殿を建立し、遷座の式が挙行された。
なお、植えられている梅の木々の中には、菅原家後裔の久松家・松平家の子孫や、
道真公の側近であった味酒(うまさけ)家子孫の手植えのものもある。
案内標識による
この後しばらく阿久比川に沿って歩きます。すぐに結芽木(うめき)川との合流点です。 今度は結芽木川に沿って行くとすぐ結芽木橋ですが、コースはその向こう側の道を進みます。やがて右手に
八幡神社から更に進むと、少し広い道に出ますからそこを左折します。
やがて左手に阿久比三弘法第三番の
宝安寺は、永正5年(1508)一叟善公和尚の発願により大日堂として建立されたが、 弘治2年(1556)大日堂が火災により焼失したため、現在地に再建された。
阿久比町誌より
宝安寺の先が白沢信号ですが、左に行けば名鉄白沢駅、右に阿久比川沿いに行けば、 出発点の坂部橋に戻ります。| ホームページ |