(99.5.23)(99.6.05)
JR半田駅の西側の道をどんどん北進すると、阿久比川にかかる半田橋につきます。
さらに進むと横松の信号です。このあたりから左手の名鉄線路の向こうに、
5月28日開店のアピタの派手な建物が見られます。史跡めぐりコースはここから始めることにします。 横松の信号からもう少し進むと、右手に

ここは萩地区の南端の出入口で、横松地区と接しており氏子の区域の境界でもある。
左手は萩を経て宮津、福住、白沢方面へ、右手は東方の丘陵を越えて乙川方面に行く道に通じている。
また、この三叉路は萩の氏神、大山祇(おおやまずみ)神社の祭礼時には神を迎える幟が たてられていた所でもあった。
萩の常夜燈は大正5年(1916)1月萩の村民6名の寄進により建てられた、中台の石の文字からわかるように、 伊勢皇大神宮への献灯として、伊勢の国を望むかの如く西向きに建てられた。
昭和5年(1940)頃までは村内で当番をきめ、常夜燈の世話が続けられていた。案内標識による
常夜燈の前の道を進むと、阿久比町公報板、その先右手に大山車鞘蔵、左手に萩老人憩いの家があります。
憩いの家のところで右折して入ってゆくと、
元の道に戻ってもう少し行くと東部小学校です。
小学校のはずれあたりに
浄土宗谷性寺(こくしょうじ) ここ入る
の看板がありますからそこから右折します。
谷性寺は永禄元年(1558)に建立され善正寺と称したが、後に破壊され寛永3年(1626)当地に移転し、 寺号を改めた。雲谷寺3世正連社覚誉上人の開山。谷性寺の前をしばらく行くと、阿久比町誌より
光西寺は当初天台宗道場山祐正庵であったが、観応元年(1350)僧教念が一向宗に改宗して創建し、 慶長18年(1613)光西寺と改めた。当初、秋葉公園の入口付近にあったと思われるが、 永禄4年(1561)現在地に移った。なお、光西寺に隣接して東部保育園があります。阿久比町誌より
光西寺のすぐ近くが、
熱田社創建の由来
景行天皇の皇子日本武尊東征の御時、淡海国造の孫丸氏及尾張国造建稲種尊等皇軍に従う。 尊崩御の後、熱田神宮創建せらるるや、知多の地方は熱田神宮の社領となる。 丸氏は来たりて英比の地を司る。この地は知多の中央部に位置し三方山を廻らす大盆地にて、 海水深く湾入し南面して気候温暖かつ開拓に適するをもって、この江入に居を定め岸深く 風光明媚の地を選びて、主将日本武尊の霊を奉祀す、地の名を宮津と呼ぶ、 これ現在鎮座の地にして熱田社創建の由来とす。
案内標識による
5月8日にはその年の農作物の出来を占う伝統行事「花の撓まつり」が行われます。境内の一隅に山車蔵らしきものがありますが、これは宮津南組山車の蔵でしょうか。
名古屋の熱田神宮の豊年祭にちなんで行われる「花の撓まつり」は「おためし」とも呼ばれ、 神社境内の「おためし小屋」に、収穫が近い田畑や、農作業する農夫、倉庫などが並ぶ ミニチュアが置かれ、それを見て今年の収穫などを占います。5月9日中日新聞より
熱田社から最初に通った県道の先に出て進むと、やがて蟹田(がんだ)橋の信号です。 その先右手に宮津公民館が見えてきますが、ここに
二子塚古墳は知多半島唯一の前方後円墳といわれています。
この古墳は編年型式や阿久比川の沖積地に位置していること等から、古墳時代中期(5世紀) までさかのぼることができる前方後円墳といえます。
このことは、当地方と大和朝廷との深い関係をうかがわせています。
本格的な発掘調査はされていませんが、地元では円筒埴輪片がこの古墳から出土したと 伝えられています。また、ここの盛土の中には、器形の復元はできませんが、 土師器の細片が相当数含まれています。
二子塚古墳は相当な変形を受けており、特に胴部のくびれた部分は 第2次世界大戦中の開墾によって大きく削られています。案内標識による
宮津公民館の先のT字路で右折し、蟹田川を渡って左折し、10mほど進んで右折、
T字路で右折します、ここのところには常夜燈と宮津北組山車の蔵があります。
秋葉神社からの上り坂を道なりにどんどん進んで行きます。
途中道が何本かに枝分かれしていて、その内の一本が正規のコースだと思いますが、
私は、道なりに進んでしまったため、萩の常夜燈の先の阿久比町公報板のところに出てしまいました。
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